「カバネ様とクオン様は、喧嘩しなさそうですよね」
きっかけは、コノエの何気ない言葉だった。クオンの解呪を行い、しかしまだその代償を知らぬ、平穏な日のことである。
茶会、と呼ぶほどのものではないが、三人で茶を嗜みながら会話を楽しむ。そんな中、彼の言葉は脈絡のない唐突なものに思えたが、思い当たることがあったカバネは、「昨日の軍議のことか」と微苦笑した。
昨夜、ナーヴを相手にどう出るか策略を練るため、軍議を開いた。ゴウトの主戦力となる武人が集い行われた会議は白熱し、対立した意見を述べる二人が胸倉を掴み合う事態となった。カバネの鶴の一声で、彼らは互いに矛をおさめたが、今朝の様子を見るに、まだ根に持っているようだ。議論の範疇を超え、最早喧嘩になっているのは、長い間ともに戦ってきた戦友という彼らの関係性もあるのだろう。
その様子を知っていたクオンは、確かに、とティーカップを置きながら思う。自分はともかく、カバネが声を荒げて誰かと喧嘩するところは、あまり想像ができなかった。怒るときは、静かに怒りそうだけれど、と、そちらは想像できたクオンは、ふふ、と思わず小さく笑う。
「お二人とも、誰かと積極的に喧嘩をするような性格ではないからですかね」
「カバネは、喧嘩するにしても声を荒げたりはしなさそうだよね。言葉ではなくて、拗ねたように態度で示すのかもしれないけれど」
「拗ねたように、とは何だ……。お前こそ、誰かと喧嘩なんてしたことないんじゃないか?」
反抗も、抵抗も、きっと幼い頃からナーヴに奪われていた。それが自分にとって負のものであっても、受け入れるクオンは、誰かと対立する思考がないのだろう。自らの意見を主張することも少ない彼に、薄々思っていたことを伝えれば、クオンは「……そうかもしれないね」と苦笑する。
そのまま、どこか気まずい沈黙が下りるかに思えたが、「ところで」と口を開いたクオンが、隣に座るコノエを見た。
「コノエこそ、……他の人たちとならあるのかもしれないけど、僕やカバネと言い合ったりして、喧嘩したことはないんじゃないのかい?」
「えっ!? それは……お二人と喧嘩するようなことはありませんので……」
「でも、不満くらいあるだろう? 君は僕を大事に扱ってくれるけど、我慢することはないんだよ。言いたいことがあれば、言ってくれれば……」
「不満なんてありませんよ! そう言うクオン様こそ、私が何か失礼をしていたらおっしゃってくださいね!?」
「コノエは丁寧すぎるくらいだよ。僕のことは」
「くっ……」
不毛なやり取りを遮ったのは、カバネの小さな笑い声だった。くつくつと忍び笑いをもらす彼は、唯一無二の友人であり従者でもある男と、何にも代えがたい最愛の者を見比べて、はは、と声をあげて笑う。
「お前たちに喧嘩は無理そうだな」
そう笑う主君に、気まずげに頬を赤くして黙り込むコノエの隣で、クオンはきょとんと首を傾げた。
和やかな昼下がり。そんな会話をしていたことが──ひどく、懐かしかった。
「……喧嘩……とは言えないッスよね……こんな……」
解呪の代償を知り、継承された呪いを使用され、ゴウトが滅びた数百年後のことだ。
カバネがクオンを避け、二人が言葉を交わさなくなってから、どれほどの時が経っただろう。それは、喧嘩ではなかった。互いに、相手を傷つけぬように、自分が傷つかぬように、距離を取っている。
その根底には、互いを想う気持ちがあるはずなのに、その想いは届かず溶け合うことはない。
カバネは、どんなに絶望に堕ちても、クオンを憎みたくはないと、葛藤し、苦しんでいた。自身の選択を悔やみたくないという気持ちもあっただろう。しかし、クオンへ憎しみをぶつけることなく、避けることで我を保とうとするのは、彼への愛情がなければできないことだ。
クオンは、カバネがいつか自分を誇れるように、幸せであろうと努めていた。自分を救うことを代償に、逃れることのできない絶望を与えられたカバネの傍に居続けるのは、つらいだろう。彼の微笑みを見る度に、切ない気持ちになるコノエは、唇を噛み締める。
喧嘩しているわけではない。憎み合っているわけでもない。形容しがたい関係は、いつか変わるのだろうか。永劫を生きる中で、変わることはあるのだろうか。そう思っていたときに出会ったのが、アルムという天子と、昔のカバネに似た──リーベルという青年だった。
「ぁ……カバネ、僕のクッキーを知らないかい? コノエが棚に置いててくれたんだけれど……」
「……あれは、コノエが俺にあてたクッキーだっただろ。もう食べた」
アルムたちを助けるべく、カバネが地上へと向かい、帰ってきてから十数年が経った頃のことである。
彼らとの出会いをきっかけに、千年近く続いていた関係が改善され、仲直りしたカバネとクオンは、某日、空っぽの棚を前に言い合っていた。
平然と言ってのけたカバネに、むぅと不満げに眉根を寄せ、唇を曲げるクオンが、「……僕のだったのに」と詰るような言葉を吐く。
「俺のだった。お前にとやかく言われる筋合いはない」
「それは君の勘違いだよ。僕のクッキーだったんだから」
微かにクオンを睨むカバネと、真っ直ぐに見つめ返すクオンの視線が絡み合った。
その様子を眺めていたコノエが、ふいに「っふは」と笑う。気の抜けたような笑い声に、ハッとそちらを振り向いた二人は、破顔している彼を見て目を瞬かせた。
「いやー、まさか、カバネさんとクオンさんがこんな風に喧嘩する日が来るなんて、思わなかったッスね」
「「……喧嘩じゃない」」
笑いながら言うコノエに、一人は気まずそうに、もう一人は拗ねたように言い返す。
リーベルたちを助けるよう、カバネを諭してから、クオンは自分の気持ちをよく主張するようになっていた。今まで、全てを飲み込み受け入れてきた──カバネの絶望に塗れた拒絶さえ受け止めていた彼の変化は、いいこと、なのだろう。
小さなことでも、自己主張をして、想いを伝えてくれるようになったクオンとのやり取りを、内心喜ばしく思っていたカバネは、気まずげに……照れたように、ふいと彼から顔を背ける。
喧嘩、とは呼べないほど些細なものかもしれない。けれど、戯れのようなやり取りは、楽しくもあって。
「……クッキーは、また焼くんで、喧嘩しないでくださいね、お二人とも」
「……ああ」
「……うん」
幼子に言い聞かせるように言われた彼らは、顔を見合わせ、互いに苦笑しながらコノエに頷くのだった。
Fin.