誰もいないリビングに、明かりがついている。
「あれ……一織、帰ってきたのかな」
皆泊まりがけのロケだったり、飲みに誘われたため朝まで帰らないなどと連絡があったため、今晩寮にいるのは一織と陸の二人だけだった。早めに帰宅していた陸は、無人の部屋を覗いてポツリと呟く。
ダイニングテーブルに、薄手のコートと濃紺のトートバッグが置かれているのを見て、彼が帰宅したのだと確信した。自室にいたため、物音に気づかなかったのだろう。
二人きりの夜だとわかった瞬間、少しだけ、……ほんのちょこっとだけ、甘い時間を過ごせるのではないかと期待していた陸は、「手、洗いに行ってるのかな……」と置き去りの荷物を見下ろす。そのとき、ふわりと嗅ぎ慣れない香りがした。
石鹸や花の匂いのような、自然な香りではない、もっと人工的なもの。香水の香りに、陸は鼻をひくつかせる。
一織のコートを手に取った彼は、生地に突っ伏すようにして顔を押し付け、匂いを嗅いだ。
(あ……やっぱり)
香水の匂いだ。清涼感がありながら、どこかほんのり凛々しい色気のある香り。
一織が香水をつけているところを見たことがない陸は、珍しいな、と胸の内で呟く。……いや、珍しいどころではない。彼が香水の匂いを纏っているところなんて、見たことがなかった。
残り香が落ちていないだけのような仄かな香りは、一織自身がつけているものというより、誰かの香りが移っているだけのような気がする。それほどまでに些細な香りに反応していた陸は、これは移り香ではないかと思い至った。
移り香──誰の?
「っ……」
嗅いだ匂いが、途端に得体の知れない物に感じて、嫌悪感まで生まれてくる。だって、これが誰かの移り香ならば、相手は香りが移るほどの距離にいたということで。もしかしたら、密着していたのでは?
相手は? 女性? 男性? 香りのイメージは男性だ。爽やかで、大人びた香り。一織の隣が似合いそうな好青年の姿が浮かんだ陸は、ぎゅっとコートを握る手に力をこめた。
そのとき、開扉の音がしてそちらを振り向いた彼は、あっと声をあげる。誰もいないと油断していたのか、無防備な所作でリビングの扉を開けた一織が、そこにいる陸に驚いたように目を瞬かせていた。
「ぁ……ただいま帰りました、七瀬さん」
「う……浮気だ……」
帰宅の挨拶をした彼に、陸は震える声で小さく呟く。おかえりを言う余裕もない。
何を言われたのかわからなかったらしい一織が、怪訝そうに眉根を寄せた。
ぎゅっとコートを抱き締めて、知らない一織の香りを吸い込む陸は、「一織、浮気してるだろ……」と少しばかり声を大きくして、じとっと告げる。その言葉が届いた一織は、きょとんと一瞬間をおいてから、「は?」と眉間に皺を寄せた。心底心外だと言わんばかりに顔を顰めた彼が、「浮気? 何を根拠に……」と口を開く。
一織のコートに口元を埋めた陸は、「……知らない匂い……」と呟いた。
「知らない匂いがしたから……お前の香りじゃない匂い……香水だろ? 誰と一緒にいたの?」
批難するように言われて、ようやく陸がコートに染みている匂いのことを言っているのだと理解した一織は、微かに瞠目する。
一方、知らない匂い、と自分から口にしていた陸は、ツキンと突き刺すような胸の痛みに目を伏せた。
「オレ、こんな一織の匂い知らないもん……」
いじけたように声を絞り出せば、言葉に詰まり口の端を強張らせた一織が、僅かに照れたように視線を逸らす。はぁ、と小さく嘆息した彼は、「……あまり匂いを嗅がないで。コートも、いつまでも顔を伏せていたら、繊維を吸い込みますよ」と陸の手からコートを優しく奪い取った。
「あ……」
「香りが残っていたのは、私の失態です。こんなところにコートを置きっぱなしにしたのもね」
「……浮気がバレるから……?」
しゅんとした顔で問えば、「誰が浮気をすると」と微かに怒気を孕んだ声が返ってくる。そして一織は、「前に、番組のクリスマスプレゼントの交換で当たった八乙女さんの香水です」と告げた。
「帰宅する頃には消えているくらいの量をつけていたつもりなんですけど、少し多かったみたいですね」
「八乙女さんの……」
プレゼント。一織が以前、出演した番組の企画で彼のプレゼントを当てていたことを覚えていた陸は、少しばかりほっと表情を緩める。しかしそれでも、自分の知らない一織を見せられた気がして、胸の奥がもやもやと心地悪くなった。
街行く人々は、陸の知らない一織の香りに惹かれて、彼を振り向いているのかもしれない。そう思うと、陸の中でゆらりと嫉妬の感情が揺らめいた。
「……オレの前ではつけてくれないの?」
ついそんな言葉が口をついて出てくる。
彼が陸の前で香水をつけない理由なんて、一つしかないとわかっているのに。
「あなた、香りに弱いでしょう」
呆れたように返ってきたのは、正論だった。一織が自分の前で香水をつけないのは、彼の優しい配慮だ。じゃあ、オレのいないところでも香水をつけないで。オレの知らない一織を誰かに見せないで。そう言いたくなるのは、陸の我儘だった。
折角貰ったプレゼントだと、使っているのだろう。もしくは、楽が選んだ香りを気に入って使っているのかもしれない。
強い香りには弱かったが、良い香りは好きだ。陸が嗅いだ匂いは、爽やかな中に仄かな甘さもある、胸がときめくようなものだった。
だからこそ、この香を纏った一織に、誰かがときめくところを想像すると、心が落ち込む。
「…………」
コートを脱いだ姿で立っている一織をちらりと見やった陸は、ぎゅっと体側で拳を握り締めてから、一歩彼に近づいた。そのまま抱きつけば、ぎょっと身を竦ませた一織が目を見開く。
肩口に顔を埋めて匂いを吸い込めば、馴染みのある、よく知っている一織の香りに安心した。同じ石鹸、洗剤を使っているから、嗅ぎなれているのは当然だ。しかしその中に感じる一織自身の匂いに、一番安堵する。
これが一織の匂いだ。優しくて、どこかほんのり甘くて、しかしそれがクールな彼の雰囲気に溶け込んでいる。
香水の匂いを纏った一織は、知らない人の匂いだ、あれは一織じゃない。そう自分に言い聞かせて、生まれた嫉妬を誤魔化そうとするが、自分の知らない一織を知っている人がいると思うと、更に胸の奥がざわめいた。
ぎゅうと抱きついている陸の背に、戸惑っていた一織の手が触れる。宥めるように優しく背中を叩かれて、抱き締め返された彼は、「……八乙女さんの香水、いい香り、だけど……」と口を開いた。
「でも、やだ……オレの前でつけないなら、他のところでもつけないで」
「…………」
「オレの知らない一織を、他の人たちに見せないで……」
懇願するように絞り出す。
別に、楽の香水が悪いわけではない。偶然当たったプレゼントとは思えないほど、一織に似合っている凛とした香りだった。
それでも、自分がその香を身に纏った彼を見ることができないと思うと、じゃあつけないで、と思ってしまう。なんて我儘なんだろう。自分でもそう思う陸は、一織の肩に顔を埋めたまま唇を引き結んだ。
「……我儘な人だな」
そう言われて、返す言葉もない。「他で、あなたしか知らない私がいるだけでは満足できませんか?」と訊かれて、「それとこれとは話が違うだろ……」とくぐもった声で答えた。
こつん、と首を傾けた一織に軽く頭をぶつけられて顔を上げれば、優しく細められた彼の瞳が見える。ちゅ、と口付けられた陸は、「……ぇ」と小さく声をあげた。
触れるだけのキスを何度か繰り返されて、次はぐっと強く唇を押し付けられる。
「んんっ……ふ……」
はぁ、と乱れた息を吐けば、その吐息を飲み込むように口付けられた。鼻で息を吸う。たくさん降ってくるキスを味わうため、息継ぎの意味もあったが、先程まで香りの話をしていた陸は、一織の匂いを吸い込むように肺に空気を入れた。
「……わかりました」
唇の上でそう囁かれて、なにが? と舌足らずに聞き返せば、「香水の件、考えておきます」と付け足される。
「ぁ……」
ひとまず今日は、あなたがよく知っている私の匂いを堪能してくださいね。
そう言った一織の瞳の色を見て、告げられた言葉が冗談半分なのだと思った。陸を宥めるため、可笑しく言い回した言葉。けれど、匂いを堪能するという言葉に胸を高鳴らせた陸は、すり、と一織に擦り寄る。
密着すれば、より一織の匂いを堪能できる、から。
「……たくさん、一織の匂い感じたい」
顔を火照らせながら、甘えるように伝えた言葉が、誘いの台詞になっているのかどうか、それが一織に伝わっているのかどうか、わからない。
しかし、腰を抱かれて、「……はい」と掠れた声で頷いた彼に期待を膨らませた陸は、ぎゅっと一織の背に回した腕に力をこめた。
「──部屋に、行きましょうか」
ドキドキと、心臓が大きな音を立てている。小声で促された陸は、こくり、と一織にくっついたまま、頷くのだった。
◇◆◇
「んっ……ぁ……はぁ……っ」
汗の匂いは、一番その人を表わす匂いなのではないかと思う。
ベッドが軋み、動く度に熱を孕んだ空気が揺れた。中に挿れられた一織の竿にイイところを突かれて、既に何度か絶頂していた陸は、終わらない抽挿に気をやりそうになりながら喘ぐ。
(一織の匂い、もっと感じたい……)
抑えきれない嬌声をあげながら、「い、ぉりぃっ……」と名前を呼んで手を伸ばせば、陸を仰向けに押し倒し犯していた一織の顔がこちらに近づいた。そんな彼の首に腕を回して、ぎゅっと抱きつく。
陸の背中がベッドから浮きそうになり、一方体重をかけられた一織の身体がぐっと屈められた。一織の肩口に顔を埋める。汗ばんだ肌に顔を押し付ければ、彼の匂いが濃厚に感じられる気がした。
匂いを嗅いで、はぁ、と甘い息をつけば、「……はは、七瀬さん、……変態みたいですね」と小さく笑われる。それは、嘲笑ではなく愛しさがこめられた笑いだった。
「だって、一織の……っふぁ、あ」
こつん、と奥を突かれて身体が跳ねる。
「顔、上げてください。伏せられていたらキスできないでしょう」
竿の先端で陸の奥に口付けながら、唇同士のキスも求める一織に促されて、顔を上げた。ちゅう、と口付けられて、ふわりと二人の間に互いの匂いが舞う。
そうやって、一織の匂いを堪能したのが──一週間ほど前のことだ。
(結局……八乙女さんの香水、つけてないみたいだな……)
今までも、いつ一織が香水をつけていたのか知らなかったし、日常的に使っていたわけではないようだったが、一織は陸に言われた通り、現在香水は一切使っていないようだった。
少しだけ、罪悪感が芽生える。香水が悪いわけではないのに、嫉妬心に駆られて、使わないでと言ってしまった。プレゼントを選んだ楽にも申し訳なくなってくる陸は、やっぱりつけてもいいよ、って言うべきかなと、某夜自室のベッドに腰掛けたまま目を伏せる。
そのとき、控えめなノック音が響き、「はーい」と返事した彼は、顔を覗かせた一織に「どうしたの?」と声をかけた。
立ち上がり、一織の傍に歩み寄れば、ふわりと仄かに凛々しい匂いがする。最近嗅いだことのある匂い。──楽が選び、一織が当てた香水の匂いだ。
香りに気づいた陸が瞠目すれば、「練り香水にしたんです」と告げる一織が微苦笑した。
「元々そんなに癖の強い匂いではありませんでしたし、練り香水なら微かに匂う程度まで香りの強さを調節できますから」
「あ……」
外ではもうつけないことにしました、と続ける彼に、言葉が出ない陸は、「……一織って……」と小さく口を開く。
どこまで優しいのだろう。陸の我儘な言葉に応えて、香水も尊重する選択をした彼に敬愛がこみあげる陸は、「……ずるいな……」と小声で呟いた。
「これからは、七瀬さんと二人きりのときに、たまにつけることにします」
「……うん……」
頷いてから、「……ありがとう……一織、大好き」と抱きつく。
キスをして、そして──先日、彼自身の匂いを堪能しながら身体を重ねたときと同じように、ベッドの上で睦み合う彼らは、仄かに香る香水の匂いの中、快感を貪っていた。
乳頭を優しく撫でられ、竿を扱かれる陸は、腰が浮きそうになりながら快楽に喘ぐ。普段よりも更に敏感に反応する彼は、その理由を自覚していた。
「あっ……ん、やぁッ……」
汗の匂い、互いに滲んだ先走りの香り、生々しい体臭に、凛としてどこか甘さもある香水の匂いが溶けていて、そこに一織の色気を感じてしまうのだ。
練り香水は、脈打つ箇所につけると匂いが綺麗に舞うと言われているが、ドクドクと身体が脈打つ度に、仄かな香りが鼻腔を擽って、鼓動が速くなる。
普段は繊細な美しさが際立つ一織の精悍な部分が垣間見える気がして、興奮した。
「ぁ、一織ッ、あ」
こんな一織を知っているのは自分だけなのだと思うと、独占欲が満たされて、それもまた興奮材料になって。
嫉妬の原因となった香水が、愛しいものになる。
今度から、この匂いを嗅ぐ度に……。
(……今日のこと、思い出しそう)
そう思う陸は、息を吸って、快感に瞳を細めて──愛欲に身を任せるのだった。
Fin.