パチン、パチン、と平たい石が盤上に置かれる音が不規則に響いていた。短く、長く、不規則ではあるが、交互に間隔の長短がある。
「うーん……」
「…………」
「うーーーん……」
「次七瀬さんですよ」
「わかってるよぉ!」
小鳥遊寮のリビングにて、ソファに腰を下ろし、テーブルを挟んで向かい合っている陸は、一織にせっつかれて情けない声をあげた。白い石で、黒の石一つ挟んで反転させるが、次の瞬間倍以上の白石を黒に変えられた陸が、あーっ! と悲しそうな声をあげる。
一織は、彼とオセロをしていた。
盤上の石がズレないよう磁石になっているため、石を置く度に、パチン、と小気味いい音が鳴る。きっかけは、陸が、出演した番組の企画で貰ったオセロセットを持ち帰ったことだった。
皆が帰ってきたら、トーナメント戦でもやろうと言いながら、久しぶりにボードゲームをするとはしゃぐ陸に付き合うことになったのだ。学校の課題をする合間の息抜きがてら始めたのだが、既に三ゲームほどプレイしている。
理由は簡単だ。全敗中の陸が、負ける度に「もう一回!」と勝負をねだってくるから。
今回も、盤上の三分の二を占めているのは、一織が持つ黒い石だった。あと数枚分しか置く場所がない盤を見つめるりくは、うーんうーんと唸っている。
どんなに頭を捻らせても、陸の色が一織の色を越えることはもうないのだが、少しでも白が占める割合を増やそうとしているのだろう。
必死に盤面を見つめる彼のつむじを眺める一織は、可愛いな、と内心呟いた。
「……ここにする!」
「わかりました。では私はここで」
「あっ」
決意の表情で、持っていた白い石を置き、三枚ほど盤上にあった石をひっくり返した陸は、彼の判断に頷いた直後、思考する間なく黒い石を置く一織に思わず声をあげる。
自分は長考しているのに、本当に思案したのかと疑問に思うほど、あっさりと次の手を決めた彼に、頬を膨らませた。
二度同じようなやり取りを繰り返して、一織は「今回も私の勝ちですね」と最後の石をひっくり返す。
「もーーーーー」とやり場のない悔しさを吐き出す陸が、背中から倒れ込むように、ソファの背もたれに身を投げ出した。
「もう一回! 一織、もう一回だけ!」
「七瀬さんが勝つまでやるつもりですか?」
「次はオレが勝つから!」
意気込んで、盤上の石を回収し始める彼に肩を竦める。
負けず嫌いな彼に付き合うのが億劫なわけではなかった。仕方ないな、という風を醸して、その実彼とのゲームが楽しいという気持ちを隠しているだけだ。乗り気なのだと思われるのは、少し恥ずかしいから。
「黒が強いのかな……なあ一織、今度はオレが黒石使ってもいい?」
「私はどちらでも構いませんよ」
難しそうに眉根を寄せて、次の手を考える姿も、悔しがる姿も、可愛らしかった。決して馬鹿にしているわけではなく、何事にも全力で取り組む様子が愛しく見えるのだ。
(……勝って喜ぶ姿も可愛いんだろうな)
負け続けていた分、やったぁ! などと嬉しそうにはしゃぎ、笑うのだろう。もしかしたら、ぴょこんと飛び跳ねて喜びを示すかもしれない。小動物のような陸の動きを想像するだけで、可愛い、と何とも言えない感情がこみあげる一織は、一人咳払いをして、邪心を押し込める。
勝たせてやりたい気持ちが芽生えるが、わざと彼に負けるのは違うと思った。そんなことをしても陸は喜ばないだろうし、一織自身、偽りの勝利を与えることを良しとする性格ではない。
故に、手加減はしない。油断もしない。──そう、思っていたのは事実だ。決して手加減したわけでも、油断したわけでもない。少なくとも一織はそのつもりだった、のだが。
「……ここ!」
真剣に盤上を見つめて、考え込むあまり唇がへの字になっている陸は、愛らしかった。
何故彼はこんなにも目を引くのだろう。何気ない仕草さえ、人の心を掴む。それが陸の魅力なのだが、何故、どうして、どこが、と考え始めると難しい。
真剣な表情を見ていると、純粋に応援したくなった。一方で、思わず口元を綻ばせてしまいそうになるほどの甘い愛しさがこみ上げる。
(……キス、したいな……)
への字に曲がっていた唇が、最高の一手を確信したように弧を描いていた。健康的に色づいた陸の唇を見つめてそんなことを考える一織は、盤上に視線を落とす。
そして。
「…………あ」
並んだ石を見た瞬間、妙な敗北感を得た。
残り一マスだったため、置く場所を選べなかった一織は、白い石を空いているマスに置き、二つだけ黒い石をひっくり返す。全体を見て、先程よりも接戦だと思う彼は、「一、二……」と数を数える陸に倣い、自身の色の石を数えていった。
手加減していたわけではなかった。油断したつもりはなかった。しかし、連勝していた分、戦局ではなく、つい陸の方に思考を割いてしまっていたのだろう。
自分の分を数え終えて、一織の石の数と比較した陸が、はっと目を見開く。大きな瞳が瞠られて、嬉しそうに明るい光が紅の中を巡り──。
「勝ったぁ!」
万歳をして勝利を喜ぶ陸の笑顔が咲いた。
僅差での勝利に、彼がやったぁと歓声をあげている一方、一織は、上の空だったため、そのつもりなく負けてしまったことに呆然とする。
悔しさよりも、陸に見惚れて勝負事が疎かになっていた自分に愕然とする気持ちの方が大きかった。
好きな人に見惚れるだけで、他が疎かになるほど自分は情けなかっただろうか? 対戦相手に見惚れて負けるなんて、間抜けで仕方がない。
愕然としていて、リアクションの薄い一織を見た陸が、「……一織? 悔しがらないの?」と首を傾げる。オセロの勝ち負けに元々そこまで拘っているわけではなかったが、悔しさよりも反省の方が強い一織は、「悔しがってほしいんですか?」と返した。
淡々とした返事に、「そうじゃないけど……」と答えかけて、しかし途中でハッと瞠目した陸が、「……もしかして、わざと負けた……?」としょげたように眉を曇らせる。勘繰る彼に、嘆息した一織は「……私がそんなことするように見えます?」とジト目を向けた。
つい口をついて出てしまったが、一織がそのようなことはしない性格だと理解している陸は、「……ううん」と首を横に振る。「単純に、あなたに負けただけです」と告げた一織は、不甲斐なさそうに目を伏せた。
しかし、それでも、先程まで余裕の勝利を続けていた一織の負けが不思議だったのだろう。自分の勝利だけ喜べばいいものを、「一織、もしかして油断してた?」と物珍しげな顔を向けてくる陸に、彼は「そういうわけではありませんけど……」と口籠る。
あなたに見惚れてしまって、手元が疎かになっていたのだ、などと言えるわけがない一織は、「七瀬さんの力ですよ」と曖昧に述べた。真剣な姿が魅力的だったから、という言葉は、形になることなく喉の奥で消えていく。
オセロをプレイする際の、自分の思考力だけではない。対戦相手の思考を奪う魅力も、陸の武器だ。それは、陸自身の力だ。
自信なさそうな彼に、あなた自身が勝ち取ったものだと伝える一織は、まあ、見惚れていた私の不可抗力が大きいですけど、と胸の内で付け足す。
キスしたい、などと邪なことを考えて、敗北したことが恥ずかしい彼は、“それ”はオセロを終えた後だ、と頭を切り替えた。
負けたままでは、終われない。
「七瀬さん」
自分の力だと言われて、照れたように頬を赤く染めている陸を見据えた一織は、決意の瞳を彼に向けた。
それは、先程まで、もう一回、を繰り返していた陸と同じ眼差しで。
「もう一回やりましょう」
そう言われた陸は、目を瞬かせる。先程まで悔しさを滲ませていなかった一織の黒瞳が、負けず嫌いな色をしていた。
嬉しそうに笑って、「いいよ」と答える陸の声を聞きながら、彼は並んでいる石の回収を始める。
同じことの繰り返し。されど、何度対戦しても楽しい二人は、その後、メンバーが帰ってくるまでの間、もう一回、を繰り返し続けるのだった。
Fin.