コホ、コホと、小さな咳の音が断続的に聞こえていた。廊下で、扉越しに聞こえる苦しげな音に視線を向けた一織は、目を伏せリビングへと向かう。
ひんやりとした空気に顔を顰めながら、部屋に入れば、朝食の支度をしていた三月がこちらを振り返った。
「お。一織、おはよう」
「おはようございます。……七瀬さん、まだつらそうですね……」
「ああ……さっきラビチャで、三十八度から熱下がってないって連絡あったよ。食欲はあるみたいだったから、お粥持っていこうと思ってたところ。一織は? 体調大丈夫か? 昨日も夜遅かっただろ」
「私は平気です。寒暖差は、少し堪えますけど」
土鍋でご飯を煮込んでいる彼に気遣う眼差しを向けられた一織は、苦笑を返す。
新緑の色が澄んだ空気に映え、春の訪れを告げる季節。昼はそれなりに暖かいが、朝夕は気温が下がる中、体調管理が難しい時期でもあった。
昨夕、陸が熱を出した、とロケ先で連絡を受けていた一織は、解熱剤を服用していたのに、効果が切れてまたぶり返したらしい陸を思って眉根を寄せる。
体調管理はしっかり、と注意する気にはなれなかった。陸が、言われずとも気をつけていたのは知っていたから。
「お粥、私が持っていきます。兄さんは今日午前中から仕事でしょう。私は一日オフなので……」
「そうか? 助かるよ」
そんな会話をしていると、既に身支度を終えている大和が、「じゃあ、行ってき──イチ早いな」と扉から顔を覗かせる。おはようございます、と挨拶をした一織は、「二階堂さん、もう出られるんですか?」と尋ねた。
「そ。撮影場所が遠くてさ……まあ、今日はナギの方が早かったからな。半分寝てたけど」
半眼になり、道中大丈夫だろうかと彼の身を案ずる大和が、「リクのこと、頼んだぞ」と言い置いてリビングを出て行く。いってらっしゃい、と兄弟の声が重なり、いってきます、と閉まりかけた扉の向こうで返事があった。
土鍋を盆に載せた三月が、エプロンを外しながら「じゃあ、一織頼めるか?」と確認してくる。頷いた一織は、盆を持って陸の部屋へと向かった。
ノックをしてから、そっと窺うように扉を開く。丁度咳をしていた陸と目が合った。
「ぁ……一織」
「兄さんのお粥を持ってきました。食べられそうですか?」
「うん……」
気怠そうに上半身を起こした彼が、歩み寄ってくる一織を見上げる。盆ごと受け取り、こくりとコップに入った水を一口飲んだ陸は、覚束ない手つきで木製スプーンを口に運び始めた。
ゆっくりと咀嚼し、嚥下する動作さえ億劫そうな陸は、そのままふらりと倒れてしまいそうで。心配になる一織は、ベッド脇に跪いたまま、彼を見守る。
しばらくしてから、「一織……?」と不思議そうな眼差しを向けられ、一織はハッと我に返った。
「……怒ってる?」
「は……え?」
じっと見られていたら、食べづらいに違いない。一旦退室すべきか、と身動ぎした彼は、眉をハの字にした陸に訊かれて、間の抜けた声をあげた。
しかし、一織が言葉を返すより先に、「……ごめん」と謝る陸が、手にしていたスプーンを置いて俯く。
「体調を崩しやすくなる時期だから、気をつけろって言われてたのに……ナギとのラジオも、休んじゃって……」
体調を崩したことを、申し訳なく思っているようだった。どんなに気をつけていても、風邪を引くときは引いてしまうものだ。「……謝らないでください」と告げれば、「でも」という小さな反論が返ってくる。
「崩してしまったものは仕方ありません。今は、早くよくなるように、しっかり休んでください」
「……うん」
言ってから、もう少し言い方があっただろうか、と思うが、頷く陸は俯いたままスプーンを持った。しかし、お粥を掬うことなく、こつこつと土鍋の底をスプーンの先で突く陸は、しょんぼりしているようで。
高熱で、精神的にも参っているのだろう。直接熱を下げてやることはできないが、せめて彼を元気付けたい、と思う一織は、「お粥、食べられそうですか?」と口を開く。「……ん……」と曖昧な返事をする陸は、しかしやはりお粥を口にしようとしなかった。
食欲が失せてしまったのだろうか。だが、食べなければ栄養も取れないし、食後の薬もある。「七瀬さん」と声をかけ、「失礼します」と彼の手からスプーンをそっと奪い取った一織は、掬ったお粥を彼の口元へ持っていった。
「食べられないのでなければ、少しでも食べてください」
そう伝えれば、微かに瞠目した陸が、お粥の乗ったスプーンと一織の顔を見比べる。おずおずと口を開いた彼が、お粥を口にするのを見て、ほっとした一織は、もう一度掬ったお粥を陸の口元に近づけた。差し出せば、ぱくりと食べてくれる仕草は幼子のようで、ふっと思わず微笑がこぼれてしまう。
普段より時間をかけてお粥を食べ終えた陸は、薬を飲み、ベッドに潜り込んだ。
仰向けになり、ふっと目を閉じる彼の体温を測る意味もこめて、額に手を当てる一織は、伝わってくる熱に眉根を寄せる。
(……冷たいタオルでも持ってくるか)
陸が少しでも楽になるように、必要な物を取ってこようと思う彼は、立ち上がった。そのまま退室すべく、ベッド脇から一歩離れた瞬間。
くんっと服の裾を引かれた一織はびくりと足を止める。振り向けば、陸が請うような眼差しをこちらに向けていた。
「行かないで……」
縋るように言われて、目を見開く。今までにも何度か陸の看病をしたことがあったが、ここまで弱っているのは珍しい。
彼を見下ろす一織は、何と返せばいいのか迷うように瞳を揺らした。すると、ハッと我に返ったように、一織の服の裾から指を離した陸が、「あ……ち、違」と引き止めたことを誤魔化すように顔の前で手を振る。
かぁっと、発熱とは異なる原因で赤面する彼に、一織は、「……わかりました」とベッド脇に腰を下ろした。
「ここにいます」
そう伝えれば、安堵したように身体から力を抜いた陸が、「……うん」と毛布に口元を埋める。目尻が下がり、熱でとろんとしている瞳は、いつもよりも幼く見えた。
しばらくして、再度目を閉じた陸の呼吸が深くなり、彼が眠りについたのだと察した一織は、そっと額に張り付いている陸の前髪に触れる。
彼が眠っている間に、入用の物を取ってこよう、とは思わなかった。もし、自分がいないときに陸が目を覚ましたら、彼がどんな思いをするだろう、と考えると、その場を離れることができなかったのだ。
そのとき、控えめなノック音がして振り向けば、出かける支度をした三月が顔を覗かせた。
「一織、オレもう出るけど……大丈夫そうか?」
「ぁ……すみません兄さん、冷却シートか冷たいタオルだけ持ってきていただけませんか?」
陸が眠っていることに気づいた三月の小声に対し、囁き声を返せば、頷いた彼が一度姿を消す。そして、冷却シートだけでなく、氷水の入った麦茶ポットや汗拭き用タオル一式を持ってきてくれた三月は、「じゃあ、後は頼んだぞ」と言って、仕事へ向かった。
気を利かせてくれた兄に感謝しつつ、一織は燃えるように熱い陸の額にシートを貼り付ける。眠っている間も、苦しそうに呼吸している彼を見つめる一織は、彼の枕元に腕をつき、ベッドに体重を預けた。
七瀬さんが苦しんでいる姿は、見たくない。代わってやりたい、などと傲慢なことは思わない。ただ、彼の苦しみを少しでも取り除いてやりたいと思う。そのために、自分ができることは限られているけれど。
起きたとき、彼が寂しくないように──。
枕元で陸を見守る一織は、飽きることなく彼の寝顔を見つめていた。
◇◆◇
昼を過ぎた時刻、一度目を覚ました陸は、今朝よりも身体を動かすのが楽そうだった。しかし、熱はまだ三十七度五分あり、完全に下がったとは言い難い。
枕を背もたれに上半身を起こした陸へ、「水飲みますか?」と尋ねれば、「うん……」という曖昧な声音で返事がある。
コップに淹れられた水を、こくこくと喉を鳴らして飲む彼は、はぁ、と息をついた。
「……汗、拭きますか?」
「うん……」
「自分で拭けますか? それとも」
「うん……」
「……七瀬さん?」
「ん……」
頭が回っていないのだろう。イエスマンになってるな……と眉根を寄せる一織は、「七瀬さん」と声をかける。そのとき、「いおり……」と名前を呼ばれて、「はい」と答えた。
ぽや、と舌足らずな呼び方で一織を呼んだ彼は、「ぎゅって、してほしい」と口にする。
「ぇ……」
熱に浮かされて不安定になっているから、人肌が恋しいのか。幼い頃は、傍にいた天に同じようにねだっていたのだろうとわかるねだり方に、一織は口を噤んだ。
しかし──、天相手であれば、兄弟同士で問題ないのかもしれないが、自分が陸を抱き締めてもいいものだろうか。そう考えてしまうのは、自分が彼に秘めたる想いを抱いているから、だろう。
そんな、恋人同士のようなこと、と思うが、いや親しい友人同士ならよくあることではないか、と思い直す。ナギは誰彼構わずと言っていいほどすぐにハグをしてくるし、三月や環だって、テンションが上がったときは抱き合ったりしているのだ。
そも、子供のように甘えてくる陸に対し、湧いてくるのは恋情よりも親心のような感情の方が大きい。
「…………」
大きな瞳を熱で潤ませて、陸はじっと請うような眼差しを一織に向けていた。
逡巡した後、よしよし、と子供を宥めるように彼の頭を撫でた一織は、そっと陸を抱き締める。
「……大丈夫ですよ。すぐによくなります」
唱えるように告げれば、こくん、と首肯があった。稚い仕草で、ぎゅっと縋るように抱きついてくる陸の背中を、ぽんぽんと優しく叩く。
一織の体温に安心したのか、幼い頃の記憶が甦り身体の力が抜けたのか、ふと体重をかけられたことに気づいた一織は、陸が寝入っているのを確認して、起こさぬよう横たわらせた。
早くよくなりますように、と胸の内で唱える。まじないをかけるように、汗ばんだ陸の額に口付けた。唇を離して、今度は一度退室しようと立ち上がり──ハッと我に返った一織は、顔を真っ赤に染め上げる。
(っ……私は……)
何を。
無意識の行動に赤面する彼は、あれは七瀬さんが幼子のように見えて、子供にするような感覚で、と言い訳を胸中に並べたてた。口元に手を当て、ふら、とよろめきつつ陸の部屋を後にした一織は、身の内に湧いた背徳感を掻き消すため、自分の昼食を作ろうとキッチンへ向かう。
翌日、一織のまじないが効いたのか否か、陸の体調は随分とよくなっていた。熱に浮かされている中、甘えるように一織に縋ったことを覚えていた陸は、「一織! ごめん! 忘れて!」と手を合わせて彼に頼み込む。
あんな子供みたいな、と羞恥に顔を赤くしている陸からは、昨日感じた幼さが抜けており、比較的年相応に見えた。
恥ずかしい、と言う彼から、ふいと顔を背けた一織は、「忘れますから、騒がないで」と告げる。
昨日、陸が羞恥に身悶えている行為より、もっと恥ずかしいことをした自覚のある一織は、彼の頼みを拒否することができなかったのだ。私は昨日のことを忘れますから、あなたも思い出さないでくださいね、と心の中だけで頼む。
そして彼は、「よくなってよかったです」と心の底から陸に伝えるのだった。
(昔、よくオレが苦しそうにしてたとき、天にぃがおでこにおまじないのキスをしてくれたことがあったけど……昨日、何か……同じようなおまじないをかけてもらった気がするな……気のせい、かな……一織が傍にいてくれたおかげ……かも。……やっぱりオレ、)
一織のこと、好きだなぁ。
Fin.